●「インナーチャイルド」
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◆インナーチャイルド


インナーチャイルドの手法は

自分の傷と、逆に聖なる部分というものを

再構築していく作業のようです。

ひとというのは

トラウマというものがあります。

それは、極端な幼児虐待とか

そういう例だけでなくて、

家でのしつけだったり、

家訓みたいなものだったり、

親のちょっとした一言だったり

するわけで、

それが傷になるのです。


ここで、傷というと、それは いけないものと
見てしまうかもしれません。

でも、この傷というのは、必ずしも
マイナスではありません。

あまやかし
あまやかし、あるいは、罰
この2つを振り返ってみてほしい。

たとえば、あなたが待たされることにすごく弱いとか
あなたが仲間はずれにされることをすごくいやがるとか

そういう、ちょっと他の人よりも弱いところが
そのあまやかし、あるいは、罰と符合していないだろうか?

子供時代に十分以上にべったりと育っていると
さばさばしたつきあいに空虚感をもったりする。
あるいは、
子供時代に、スキンシップも不十分すぎる場合でも
さばさばしたつきあいに空虚感をもったりする。

逆に、そういうところが 適度だと
べつに、
さばさばしたつきあいをされてもなんも感じない。
それにさしたる「価値観」を認めないから。

子供時代の罰、だけでなく、
小学校の時の友達との会話とか
よく聞いた歌の歌詞とか
テレビの内容とか、
大人になってからの恋人からのひとことだったり、
それが傷になる。
きっかけは
 親のしつけ、家訓、道徳、罰、
 小学校の友達との遊びや会話、関係
 恋人とのアクシデント。。。かな?

でも、そうした傷は
そのひとが乗り越えられない傷は与えられない(はず)。

その傷をのりこえたとき、それは大きな宝になる。

そして乗り越えるためには愛が必要だ。
なくてもいいけど、ないとかなりストイックにつらい。
誰かが必要だ。

慈愛。という。

だれかといっしょに自分の傷を見つけたり
直していく、認めていく、
受け入れていくことで、
その傷は宝になる。

スノーマンの残していったマフラーのように
せつない思い出が
今度はだれかを暖めることのできるものとして
残る。

傷は誰にでもある。
わざわざ傷を受けにこの世に生まれるからだ。

その傷が学びに繋がるという見方もある。

傷があるおかげで、
ひとは誰かを
大切に受け止めることができるようになれる。

傷にきづかないと
がははと笑っていても、
それは笑いではない。



未処理の感情とくらいに表現してもいいのです。



一説には

ひとというのは

トラウマを満たそうとするから

恋愛をするのだといいます。

自分の、恋愛パターンというものが

なぜか存在するというのは

その、せいだったりします。





ひとそれぞれちがうのに、同じような

相手を呼んでしまう、呼ばれてしまう のです。




傷:メモ 



何気ないちょっとしたできごと



子供だったから。。。



深く傷ついて、恐れ、しばられて、くりかえしてきた



親をよろこばすための「うん」



それが自分の感覚の麻痺になることもある。



自分で決めることへの 逆らい



「そんなことをするこはうちのこじゃありません」



という条件付きの愛にまつわる言葉


過去の自分をさぐっていくところ

仙台コーチング協会でのコーチングでトラスト系の部分に

過去の自分をさぐっていくところも用意しているんですが

そこで、ただ単に 中学生の時、とか、小学生の時、、、とやるのもひとつですが、

たとえば、こんなふうにききます。



【質問例】
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

【1から2歳のときは】

【幼稚園、保育所のころ】

【小学生の頃】

【中学生】

【高校】

などなど

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*


で、出るイメージをそのひとなりの

映像、音、文章、思い出、とかそれぞれにでたものを

受け止めます。


インナーチャイルドの話になると、他のコーチングを勉強をした人とぶつかる
ときがある。とくに、銀座のほうでのエニアグラム=自分、さらに、他人の理解だと教えている所とぶつかる。
インナーチャイルドについては、検索すればすぐに調べることができる。

過去に付いて調べるときに、自分の育てられ方や、ちょっとしたショックなことなどが、自分の価値観をつくっていく。
これは、宗教的な見方をすると、もしかすると、そのひっかかるなにかを(これを傷としてみるかもしれないが)もってそのひとの今世の学びとする見方がある。
そのことによって今世でなにかを掴んでいきなさいということであるということだ。
たとえば、対人関係に悩む人は、ある意味でそういう「ひととのつながり」に価値をおいているということでもある。
お金にこだわるひとにとってのみ「けち」という概念が存在するのと同じなのだ。あのひとけちねえと言うのは、言った本人がお金にこだわっているから出る言葉なのだ。

さて、過去をみることには価値があると思う。とくに、インナーチャイルドのアプローチは心理分析のプログラムよりも深く相手を理解することになる。

 しかし、ここに論点が3つある。
●ひとつには、深く関わる必要性がまだない場合があるということ。
●もうひとつは、過去をみるという手法は、コーチのひとつの武器としてもっていていいが、
そのパターンだけではなく、認知療法のように、「そのことはもうすでに解決された物として扱う」と言う方法もあるということだ。
 たとえば、夫婦仲が悪いというときに、その原因をつかむというのもそのひとつだが(いや、、、その前にうちの子どもがということで話がくるんだが、そのときは、たいてい夫婦の関係が問題なので、そこまではつきつめてしまい、子どもだけにモルタルをぬるようなことはしないのだが)、その問題はさておき、感謝の気持ちを持ってありがとうを言うことだったり、声をかけるということが 改善に向かうということもあるからだ。
 たとえば、夫が浮気をしていようが、そのことをせめたり、暗くいるのではなく、そんなものは無いものとして、明るく接するのだ。

●さて、もうひとつは、エニアグラム程度の分析でもいいのだが、この真意は相手をそのいくつかのパターンにおしこめて扱うことは意味がないということだ。

 多くのコーチはここを見誤ることがおおい。
 つまり、セミナー等を開催して、そこで、性格分析をみんなでやって、わーわーきゃーきゃーもりあげってそれで、おしまいというやりかたである。

 DISC理論でも同じだが、その真意は、ひとが自分(コーチ)とはちがうということ、当然その接し方も相手によってかえる必要性というのがあるということだ。

 しかし、ここで、大きなまちがいをおかしてはならない。レッテルを貼ったとたん相手は見えなくなると言うことだ。
つまり、コーチは、相手の「今」を見る。過去になにをしていようが、関係がない。今どうあるかなのだ。