Coaching Cafe 実例集:会社編




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こんなこと、ありませんか?



なんで、やってくんないのかなぁ!!



はたして、高橋尚子はコーチングによって 養成されたのでしょうか? もちろん、小出監督との信頼関係とかはあったでしょうが、 いまさら、高橋尚子に  コーチング的な質問によって、気付かせていくという手法をとるほどに 進歩向上しようとしている状況の高橋尚子 に、また、高橋尚子と小出監督の、マラソンにおける 心理的距離感において、 コーチングと言う底浅いスキルは超えていたと思われます。 同じく、スポーツ選手では、ゴルフのタイガーウッズと そのコーチのことが話題になります。 この場合は、コーチング的な、質問 によって 技術の向上が見られたのですが、 ここでは、解決策、いわゆる「答え」としてよりすばらしいものを もっていたのはタイガーウッズであったということが言えるのではないでしょうか? もしくは、コーチが タイガーウッズよりもすばらしい 「答え」を持ってても、それを従順に「自分のものとして」タイガーウッズは 落とせない性格にあったと考えられないでしょうか? 本来、コーチングというのはスポーツ界でいうところの「コーチ」とは ちがいます。だって、考えても見てください。 野球界の監督とコーチが どこが違うでしょうか? 監督のほうが偉くて、全体を掌握している、コーチは監督より下で一軍とか二軍とか、あるいはバッターとか 細分化されたところを指導するわけで、巨人の**コーチが、選手に向かって「きみの今のホームはできとしては何点?」などとは聞くスタイルではなく、 「ばかやろー、右右!」とかやるわけですから、、、。 で、 コーチと言うと、まあ、少女マンガに出てくる 宗像コーチとか、あるわけですけど、 なぜかここにかつては、色恋の要素がはいるわけです。 だから、少女マンガのコーチは 明日のジョーの丹下のおっちゃんの顔かたちでは だめなのです。 で、なぜかというと、 ここは、時代ずれしているのですが、女性選手とコーチの間に深いこころのシンクロが おこなわれるのは「恋愛感情」じゃねぇの  という思い込みがあったわけです。 だから、バレーボールの選手とコーチとかが、「あれはできてるんきゃないのかなぁ」とか 必ず、5流週刊誌では書かれてしまうのです。 で、丹下のおっちゃんは、最初 ジョーの確実にコーチだったわけですけど、 そこいはコーチングのスキルではんです。というか、 それは、もう超えていたんですよ。 いまさら、「ジョーよぉ、力石に勝つにはなにがおまえに足りないと思う?」 なんで聞く必要なく、 「立つんだ!立つんだ!ジョー!」でよかったんです。 これ、命令ですから。。。。 ね、コーラのキャッチフレーズは「DRINK COKE」です。 コーラを飲め、あるは、コーラを飲もう!ですよ。 駐車場の案内も、矢印一本です。 なぜかといったら、 目標がさだまっているからです。 駐車場の前で、運転手が思っているのは「どこから はいえばいいか、おしえてほしい」ですから、 「→だ!→だ!ジョー!」でいいわけです。 つまり、看板と こころがシンクロしているのです。 こころが 響きあっている状況であれば、 そこには 「**しろ」という命令も コミュニケーションを阻害しないと、 ゴードン博士の本のなかでも述べられています。 ===>html\kouza03\a\a_01_01.htm 「指示、提案、評価、質問、からかいも生産的な場合なら コミュニケーションをさまたげることはほとんどありません。」 コーチの本質というのは 「居る」ということだけであって、 ひとりじゃないぞと いうものだけで必要十分条件は満たしていて、 クライアントとのこころのひびあい度合いによって、 質問によって、気付かせていくという手法が 必要に なって「しまう」ケースもあるということではないでしょうか? つまり、コーチングは 、角質化したこころのケアに必要な ものであって、 本来はそれがなくても つながれるほうがいいのでは、、と。 ヤンクミが、 卒業式で 「おまえらには、仲間がいるってことを わすれんな!」 って 言っても、通じるのは もう コーチング的な手法なんかは 必要としないくらいに こころがシンクロしているからです。 それだけのことを いままでつみかさねてきたからで、 あ、それは、コーチングとだぶるものはあっても、 基本的には、慈愛いっぽんでした。 巨人の星の最初のころの  一徹と飛雄馬はどうでした? 巨人の星の オズマは?  ロッキーのロシアの選手は? いろいろ考えてみてください。 >  コーチングがひとりのコーチあるいは監督の中で採用されているのは  お金のない 少年野球チームとか、  あるいは、日常的な ものを チームでサポートするほどの規模じゃないもの  ではないんでしょうか???   そういう場ならば「ほらーボール見ろ!」ではなくて、 ボールが回転しているんだよ がいいでしょう。 こんなこと、ありませんか? なんで、やってくんないのかなぁ!! ●これが、 フレンドリーなコミュニケーションに基づいたおだやかな関係になるというのが● コーチングの象徴的な構図として表現されます。 しかし、 これは「コーチング」を商品として売る資格会社の言う セールストーク であって この2パターンだけが、 上司部下、あるいは、人間関係の 構図ではありません。 たとえば、 「泣きながらしかる」 というものに表現されるような 関係は どちらになると思われますか? また、コーチング的な手法の勉強が、今、なぜ、必要かという話をその後に読んでください。 (関連:html\kouza0\00-01-12.htm): ○江戸時代はそんなものがなくても、なんてことがなくてもひとびとは豊かで、 家族が平和に暮らしていけた:ここはプランニングの部分です。 もう、かつかつにやっていかないとうまくいかない せちがらい世の中になってしまった背景があります。 寄り道、迷い道による学びをしている余裕がだんだんなくなっています。 (関連:html\\kouza0\00-01-13.htm): ●日本でコーチングが必要とされていく現状 1:ほとんどのひとが疲れ切っている。 2:つきあいが希薄。 3:こらえしょうがなくなってきている。 4:価値観がばらばら。 :ここはコミュニケーションの部分です。 コーチング以前に、心理学として、 人間の行動の心理としての ふたつの原則があります ひとは、 ●自分がやりたいと思ったことを、行動する。 ひとは、 ●そのことを「やりたい」と  「言った人」が、行動を(より積極的に)おこなう。  「言われた人」が、行動をおこなう保証はない。 ●自分がやりたいと思ったことを、行動する。 ○これは、寓話「北風と太陽」で、旅人が「(あついから)脱ぎたいと思った」というのが キーポイントでした。 ですから、それを、北風が知っていれば、 ビュービューマントを吹き飛ばすようなことでなくて、すそを風で持ち上げて 旅人の顔をふさいで、マントを着ていること自体をじゃまにしてしまうとか、 すそをまくりあげて、おしりまるだしで  みるからにかっこ悪い ポーズを作ったりして、 マントを着ていること自体をやだなと思うようにしてしまうとか、 旅人自体を スパリゾート「温泉常夏」までふきとばせば、 旅人のマントを脱がせることはできたかもしれません。 旅人は脱ぎたいと思ったから、脱いだのです。 ●そのことを「やりたい」と  「言った人」が、行動を(より積極的に)おこなう。  「言われた人」が、行動をおこなう保証はない。 ○これは、「××しろ」と命令されて、それを「無言」でもくもく 聞くという構図もありますが、  その場合は、命令されたひとの気持ちがどこにあるかによってさまざまなので、心の中の言葉をあてはめてください。  上司「××しろ」   部下「××します」===>××が(おそらく)おこなわれます。(部下がうそつきでなければ)  上司「なにしたい?」 部下「××したいです」===>××がおこなわれます。  上司「××したら?」 部下「○○します」===>××がおこなわれず、○○がおこなわれます。 ●人間の行動は、「頭・知識」、「ハート」、「手」 という3段階があります。 ●ひとの行動は、やらなければいけないという「恐怖」か、  やりたいという自らの気持ちの「欲望」によって行われます。 ○その場合、「恐怖」による行動は「生きたい」という「欲望」にその基点を置きます。 (いわゆるマズローの5段階欲求を見ながら 解読) (イメージとして、背中にたてられた矢「恐怖」) ●自分の外に 「やる設計図」がある場合は、  その設計図の持ち主との 心の「ひびきあい・接近」によって  実行者 自身の設計図と同じに位置づけられます。    ※「ひびきあい・接近」はそのことに関してであって、別に、全人格的な信頼関係までのことを示しません ●行動しようと思っても、それができない、技能的に不可能な場合があります。 (豆をひろいたいが、手がスキー手袋のような手のひとのイメージ) ●ひとは、ハートの部分が角質化しているひとと、お互いにあるいは一方がハートをさらけだしているひとがいます。 たとえば、選手にコーチが 従来のスポーツコーチ手法であれば、 赤青きいろの行動があったとして、相手に勝つには 赤い豆を拾え というのが 明らかに正解だというときに、 選手の頭のなかに 赤があれば、赤い豆を拾えは用意に、支持というほど強くなく 教えることができる。 そこで、 選手の頭のなかに、青と黄色しかなければ、 アタックNO1のコーチが「**しろ!」と言うように 頭のなかにない 赤い豆を拾え という 支持が行われる。 なぜか? それは、選手の頭の中になかった赤が、選手のものとなぜか認識されたから。 それは、なぜかというと、選手とコーチのハートの部分が角質化していないで、 、お互いにあるいは一方がハートをさらけだしているので、 コーチの赤い豆を拾えが、選手のハートをきちんとあたためる命令となる。 現在でも、選手とコーチとの関係が、「コーチング」を商品として売る資格会社の言う やりかたがおこなわれているわけではない。 いちいち、これはこうだという正解があり、その命令を正しいと思い、そのコーチを 信じている選手は、別に「これって、〜〜〜だと思うかい?」などという手順を 踏む必要がない。 鑑別所にいたおっちゃんとジョーの関係のように「うつべし!」の命令に ジョーがそうと信じて力を出し切るのは、おっちゃんを信じられる関係にいた こころところのつきあいが (ボクシングという場においてのみで十分)成立していたからだ。 コーチングと言うと カルロスゴーンが例にあげられたりするが、 実際、彼と、零細な町工場のおっちゃんと従業員の関係と ゴーンと日産の社員との関係がどっちがこころがあたたいか といったら工場のおちゃんのほうがあたたかいと思う。 この場合は、町工場のおっちゃんが赤い豆を拾え という正解を知らないということがある。 ロッキーとアポロの関係。現在のオリンピック選手は 1対1のコーチングは実際にありえない。チームによって要請していて、そのなかにメンタリング担当者もいる。少年野球チームの監督がコーチングを憶えようとするということのほうが、実際。高橋尚子はすべての答えを自分であみだしてはいない。
































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