仏教  
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飯田史彦は輪廻転生を説くが
仏教界では輪廻からの解脱をおしょうの力によって行い
極楽に行けるとしてるんだな、、、、。
しかし、この世のおしょうのなかには、
銀座国分町ボトルマン、
話題と言えば飼っている
ブランドペットの話の なまぐささんも多くいて、みんなの不信心を助長している、、、。
どうかなぁと 思うんだけどね。。。

■極楽
 仏様の戸籍調べによれば、
極楽とは中国で命名されたもので、もともとはスクハーバチという名前。
 ここは、生死、寒暑、憂悩などの「衆苦」というものがない。
 南の島のパラダイスというか、、、ハワイみたいなところではないらしい。
 「七宝の樹林、七宝の池、天楽雨華(てんがくうげ)の荘厳到らぬくまなく(意味よくわからない)、 百花野に咲き、温風身に適し、微妙の雅楽常に耳に響き、薫香不断の珍臭、鼻端に迫り、 不自由と不満とから全くかけ離れた世界」らしい。
 大正8年ころ(この本が書かれたころ)には、本願寺でアミダ丸(あみだがん)という薬が販売されて、 これを飲めば極楽に行けることになっていたらしい。
 この極楽の国王というのがアミダ様で、もともとは、インドの富国の国王だったらしい。
それが、世自在王仏という仏によって感化され、仏道に入り、法蔵比丘(ほうぞうびく)という坊主になった。
そこで、西方十万億土(距離?)に極楽国を発見したということだ。

 基本的には他力往生という誓願で、アミダ仏に「ナムアミダブツ」と、 お願いすれば、極楽に行けるとなっている。
 釈迦がこのアミダ仏の前世のときの子どもにひとりという話しもあるらしい。

心も愛も命も目には見えません。
でも、そこにあることはみんな信じているでしょう?
目に見えないものでも信じることができるものとはそういうものです。
心は電気信号でもないし、愛はアドレナリンではありません。命は、心ぱく数と脳波と瞳孔反応ではありません。
(人の死の条件は、心停止、呼吸停止、瞳孔散大という三つの兆候)


仏教では智慧というものを一番大切にします。
無明というのは智慧がない姿であり、無明であれば、たとえそれが善意であったとしても不幸を招きます 。

曇り
天上界
長い眼でみれば、転生輪廻の過程で皆さん方の魂に与えられた試練であると思って、 それもまた常勝思考として捉えて、その試練を積極的に受け止めて、
大日如来は本名を,摩訶毘慮遮那仏(マカビルシャナブツ)と言い「真言密教の本尊で, 宇宙を照被する大日輪を意味し,一切世間の万物を哺育する慈母..」(広辞苑) 密教(日本では真言宗・天台宗)以外の仏教では死後極楽浄土に生まれたり、 数々の修行を行って仏にされると教えている。密教では正しい修行を積めば、 あらゆる人がこの身このままで仏になれると言う「即身成仏」を説いている。

凡夫は自覚が無いが、本来仏陀と同質であり、誰でも仏菩薩の種子を具備しているので、 迷いを滅却して、究めれば成仏に至る。 密教の教えは宇宙の真理である大日如来の教えであるから 真理を追究することは人間の能力では理解することはきわめて困難である。 ところが密教以外の教え (=顕教(けんぎょう))は衆生を救うために仏が人間と成ってこの世に現れた釈尊の説かれたものである から理解はし易い。ここがキリスト=釈尊と創造主=仏、新約聖書=顕教と旧約聖書=密教 の  関係性と非常に似ている。 密教は絶対の仏である法身大日如来が自らのさとりを永遠に説いて いる教えであるのに対し,顕教は相手の資質能力に応じて説かれる仮の教えで, 釈迦如来・阿弥陀如来などが教主である。 密教と顕教の違いは、法身仏の解釈の違いにある。 顕教の毘盧舎那如来は、自らは説法をせず、衆生を救うには自らの代理としての無数の説法する 仏を宇宙のあらゆるところに派遣する。 これに対し密教の大日如来は、直接衆生に対して真理を説きます。 菩薩道の遠い道程も短縮され、身と口と心を活写すれば、「速疾に」大日如来と同体となり、 煩悩多きこの身のままで、成仏に到達するという。 ただし大日如来の教えは象徴的表現が多く難解で、 特別に修行を積んだ人間だけが理解でき、一般の者には知ることのできない秘密の教え(=密教) とされている。 インドでは、魂の輪廻が信じられていますが、多数の神々を祭り、 よい世界への転生を祈ります。神々は数は多いですが、唯一なる神の副次的な神が多くあり、 それはなにものも除外するより同化させることを考えた結果です。   「あなたは、私のほかに何物も神としてはならない」という掟をもったユダヤ教や、 西欧型の一神教とは根本的にちがうのです。ヴィシュヌの化身クリシュナが 「人がいかなる神をあがめようとも祈りに答えるのは私である」とヒンドゥー教聖典で宣言しています。  正しい人間は死後天界におもむきますが、悪い人間は暗い世界におとされると信じたインドの人々は、 悪事を行ったものは不幸な状態に転生するという基本的な因果の法則により生死輪廻を信じました。   このような死後の輪廻から逃れたいという願いは、2500年前頃より急速に広がり、新しい宗教を期待するようにな り、仏教、ジャイナ教などが誕生したのです。